改めて私が万年筆好きな理由を考えてみた
現在、万年筆はボールペンなどの手軽な筆記具に日常的な場面での主役の座を奪われた面があるが、それでもなお多くの人を惹きつけている筆記具である。この記事を目にされているあなたは、おそらく万年筆に興味をお持ちの方だと思うが、できれば、万年筆に興味が出てきた人や、全く興味がない方にも一読してほしいと思う。

私は年筆が好きである。複写式や、注意書きに「※ボールペンでお書きください」と書かれていなければ、書類などはすべて万年筆(顔料インク使用)で書いているし、パーソナルな筆記の際はもちろん万年筆で毎日使っている。
そんな万年筆好きの私はある時、何故これほどまでに万年筆に惹かれているのか不思議に思った。何故だろう?万年筆の魅力は、独特の書き味と表現力という「書く道具」としての機能性はもちろん、多面的な価値があると思う。それは、インクを選ぶ楽しみだったり、ペン本体のデザイン性や工芸的価値だったり、それによる愛着と所有する喜びであったり、ステータスや知的な印象だったり、書く所作だったり…。人により惹かれるポイントはさまざまだと思うが、どれも魅力のひとつだ。
私もお気に入りの美しいデザインの万年筆があり、これは書くという所作をはじめ、持つ喜びもあるし、周囲に万年筆を使っている人があまりいないという自己満的な優越感のようなものも感じている。
しかし、それだけではない感じがしていた。そして改めて深く、深く考えてみたら、なんとなくだけど気がついたことがある。私が万年筆に惹かれている一番の理由、それは、大っ嫌いな自分の書く文字が、ちょっとだけ好きになれるからだと。
私は文字が汚い、とともに稚拙である。本当に多くの人、というか全ての人から「汚い字だね」といわれる。もうすでにそうなだとわかっているはずの身内からも、字を書くたびに「汚い字だね」といわれる。
いつだったか、仕事で雑誌の挨拶を手書きしていた時期があった。汚い字なので本当に嫌だったが、手書きが伝統になっていたので仕方がなく頑張って書いていた。ある日、読者から「汚い字なんだからわざわざ手書きしなくてもいいよ」という(私にはそう読み解けた)手書きが来た。もう本当にショックで、かなりへこんだ。もちろん、次号から手書きをやめた…。以来、文字を書くということにますます消極的になっていった。練習すればいいじゃん!という声もあると思うが、そこまでポジティブな気持ちにはなれなかった。

社会人になると自筆で書くという行為より入力する行為の方が断然多いので、人に向かって書くことをしないでも生活することができる。稀に手書きをする機会もあるが、それほど多くはない。それでも、住所などを書くたびに「汚いと思っているんだろうな」。どうせ汚いないですよ」というネガティブな気持ちになっていた。これをコンプレックスと言わずしてなんというのだろう。
でも、何故か万年筆で書く時だけ、ほんの僅かだけどその気持ちが薄れる感じがしていた。それどころか、「味のある字じゃない!?」とさえ思えた。これはとっても不思議だ。自分が好きな万年筆で書いているからそう錯覚しているだけだろうと思った。
ただ、本当に錯覚なのか、もし錯覚ではなく、万年筆には字を上手に書くことができる効能があるとしたら、それはすごいことだと思って調べてみることにした。
いま風にAIさんに
「ボールペンで書いた自分の字は稚拙に見えるのに、万年筆だと少しマシに、あるいは「好き」とさえ思える。その差は何か?」というニュアンス(質問は残念なことに削除してしまった。聞き方はもう少し具体的なことを聞いていたと思うし、でももしかするとそもそも聞き方が悪かったかもしれない)で聞いてみたところ、次のような答えが返ってきた。
非常に興味深く、多くの方が共感されるであろう感覚だと思います。インクの濃淡や光沢といった見た目の効果だけでは説明しきれない、「自分の書いた文字」に対する受容度の違いですね。ボールペンで書いた自分の字は稚拙に見えるのに、万年筆だと少しマシに、あるいは「好き」とさえ思える。その差を生み出す「何か」について、いくつか考えられる要因を挙げてみます。
1.筆記速度と思考のペースの変化
万年筆はインクフローの特性上、ボールペンのように速書きするにはあまり向いていません。自然と筆記速度が少し落ち、一画一画をやや丁寧に書く傾向になります。この「ゆっくり書く」という行為が、結果的に文字の形を(無意識のうちに)わずかに整え、自分自身にとって「マシに見える」字につながる可能性があります。思考のペースも筆記速度に同調し、より落ち着いて文字と向き合えるのかもしれません。
2.筆圧の劇的な違いと線の質
ボールペンは構造上、ある程度の筆圧をかけてボールを回転させないとインクが出ません。そのため、線には「押し付けた」感覚が伴いがちです。一方、万年筆は毛細管現象でインクが出るため、ほとんど筆圧をかけずに書けます。この「力を抜いて書かれた線」は、ボールペンの線に比べて、硬さや力みがなく、より軽やかで自然な印象を与えます。たとえ字形が同じでも、線の質感が異なることで、書いた文字全体の印象が柔らかく、好ましく感じられるのではないでしょうか。稚拙に見えるというのは、もしかしたらその「力み」や「硬さ」が原因かもしれません。
3.ペン先の角度と持ち方の安定:
万年筆はペン先(ニブ)のスイートスポット(最適筆記角度)がある程度決まっており、それを維持するように持つ必要があります。ボールペンのようにどんな角度でも書けるわけではありません。この制約が、逆説的にペンの持ち方や角度を安定させ、結果としてストロークのブレを減らし、より一貫性のある文字に見せている可能性があります。
4.「書く」という行為への意識の変化
万年筆を使うという選択自体が、「単なる記録」以上の「書く」という行為への意識を高めている可能性があります。少し特別な道具を使うことで、「丁寧に書こう」「きれいに書きたい」という心理が(たとえ無意識でも)働き、それが実際の文字に微妙な影響を与えているのかもしれません。道具に対するポジティブな感情が、成果物である文字への評価にも影響する、いわばプラシーボ効果のような側面もあるかもしれません。
5.インクと紙の相互作用による「有機的な線」
シェーディングやシーンとは別に、水性インクが紙の繊維に染み込む様子は、油性のボールペンインクが紙の表面に乗るのとは異なります。これにより、線の輪郭が微妙に滲んだり、インクが溜まったりすることで、ボールペンの均一な線にはない「有機的な揺らぎ」や「温かみ」が生まれます。これが、手書き文字の「味わい」として好意的に受け止められる要因かもしれません。均一すぎる線は、時に無機質で冷たく感じられることがあります。
結論として、ボールペンで書いた字が「汚く稚拙」に感じ、万年筆だと「幾分好きになれる」という差は、インクの見た目の効果だけでなく、
- 書くスピードや筆圧の変化による、線の質や文字の丁寧さの向上
- 道具を使う際の心理的な変化(意識の向上、道具への好意)
- インクと紙が作り出す、微妙で有機的な線の質感
といった、物理的・心理的な要因が複合的に作用した結果ではないかと考えられます。万年筆は、私たちに少しだけ「丁寧に書く」ことを促し、同時にその結果を好ましく見せる何かを持っているのかもしれませんね。
ということだ。
なるほど、AIっていろいろ分析してくれますね。この分析を読んで改めて考えてみた。
いろいろ物理的な面があるという答えだけど、そうかもしれないけど、どれもこれもなんとなく腑に落ちない。ただ、4.「書く」という行為への意識の変化については、そうなのかもしれないと思った。
というのも、万年筆で字を書く時だけ「字を書くこと」がとっても楽しく感じられているからだ。
「…いわばプラシーボ効果のような側面もあるかもしれません。」
思い込みだとしても、それでもいいと思う。
万年筆だと字を書くことが楽しいというポジティブに気持ちになっているし、それ故にもしかするとプラシーボ効果でほんのわずかに身体的変化があり、本当に字が上手くなっているのかもしれないし。

もし、私のように字が汚くて文字をあまり書きたくないという方がいらっしゃったら、一度万年筆を使ってみてはいかがだろう。
もちろん、万年筆を好きにならないと思いこみ効果はないかもしれないけれど、でもきっと大丈夫。
だって万年筆は本当に気持ちよく、楽しく字が書ける筆記具だから。好きになるに決まっている。